(からだ主語)
解放されて 自由なのが「からだ」だから
私(人間)の支配下にはおいておけない
「からだ」は生命そのものだから
どんなに意識関与でコントロールしても
コントロールするだけではヒズミが生じてくる
コントロールすることはヒズミそのものだから
それだと 「からだ」はあらわれてこない
「からだ」は 感じることであらわれてくる
「感覚=表現」
コントロールしようとしている私(人間)に
感覚をとおして
何が自然で 何が不自然かを教えてくれるのが
生命そのものの「からだ」なんだから
呼吸は「感覚=表現」
吸気は表現そのもの
(からだ主語)
吸気が「からだ」に入り
吸気が「からだ」から抜ける
吸気が空間から抜けて
吸気が空間に入る
空間と「からだ」
あっちとこっち
吸気で一致
そこにないもの
それは 私
もし 「わたし」が入る余地があるのなら
それは 「吸気をいただいている」と
感覚意識で感謝が生まれたとき
意識するから 感じられる
感じているから 意識になる
あべこべのようなことも
「からだ」がききわけているから
「からだ」にききわけられる
(からだ主語)
感じようとしていないのに
意識しようとしていないのに
気づいたら表現している「からだ」はあって
そんなときは
「からだ」がききわけている
ということだけになって
「わたし」はおいてけぼり
なんてことはなく
ちゃんと「うごき」と「ながれ」にのっかっている
「からだ」と重なって 消えているだけだから
手順を追って 正確に操っても
手本を真似て 上手に操っても
「感覚=表現」にはならない
「感覚=表現」は
意識関与とは もっとも遠いところにあるから
習慣的に身につけた無意識と
「からだ」の無意識は違うってコトも
「感覚=表現」であらわれてくる
「からだ」は教えてくれる
(からだ主語)
その意識関与を手放したとき
あらわれた「からだ」は
吸気をとおして教えてくれる
ここに
ここに
ここに立つ
「感覚=表現」であらわれてくる「からだ」は
うらとおもてが重なる「うつわ」
目に見えるところも
目に見えないところも
それぞれに適って 立ち上がる
吸気と共に立ち上がる
意識関与だけだと
目に見える範囲が基準になるけど
(からだ主語)
「感覚=表現」であらわれてくる「からだ」は
目には見えないところにも
意識を向けさせてくれる
それは意識関与で使う意識とは違っていて
「からだ」からいただく感覚意識
「うつわ」には
「からだ」がききわけていて
目に見えないことで満ちている
目には見えない基準にふれて感じている
体液がふるえるほどの感動を感覚し
感謝になって循環している
共に生きている生命を感じられるから
生かされている環境の空間を感じられるから
からだは「からだ」 といただける
「からだ」からのメッセージには
その「からだ」がききわけていること(もと)も
入っている
「からだ」にとって自然なことは
いつだって「からだ」が教えてくれている
理屈では
言葉のおもて側から眺めているだけで
分かったような 分からないようなことも
(からだ主語)
その言葉の憶にふれることは
メッセージを感じ取ること
感じ取れるのは 循環の「ながれ」
気づくと 「からだ」に必要な吸気は入ってくる
「感覚=表現」であらあれてくる「からだ」は
共に生かされながら生きる生き方そのもの
「からだ」は
人を選ばないし 急かさない
私(人間)を支配しないし 干渉しない
いつでも それとして そこにあって
だれがやってもそうなるってことを教えてくれる
計測できない「間」で
ゆっくり「からだ」と対話できる
目に見えるのがおもてで
目に見えないのがうら
そんなふうに決めているのは
私(人間)の意識関与
「感覚=表現」であらわれてくる「からだ」は
すきとおっているから
うらもおもてもあって
うらもおもてもなくて
吸気はすき「間」にすーっととおる
(からだ主語)